とくに江戸時代の小説や時代劇やマンガを読むといつもモヤッと浮かんでくる疑問があってネ。
それは「当時の『1文』っていったいどんぐらいの価値なんだろう?」て事ですヨ。
まぁ一瞬「モヤッ」とするだけですぐ忘れるし、まさにどうでもいい事でもあるんだけど。

コトの発端はこうだ。いつも何かヘンなものば~っかりコレクションしてる友人がいてだな、
以前は「牛乳のフタ」を集めてニヤニヤしてたんだけど、嫁にキレられて捨てられてっていう、
そんな変なヤツなんだけど、今はなんか懲りずに寛永通宝とか集めてるらしいんですヨ。

あ、寛永通宝てのはホレ、江戸時代のお金ですヨ。銭形平次の投げ銭のアレっすネ。

で、ある日、ソイツから電話があって「1文の価値っていくらぐらいだったの?」と。
とりあえずいつも通り「知るかボユゲーッ!」と怒鳴ってガチャ切りしておいたんだけど。
あ、ボユゲってのはオイラ造語で「ボケ&げじげじマユゲ」の意味です。

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とはいえ、そんなオイラも気になるっちゃあ気になる案件。
で、半年ほど前からヒマを見つけて思い出しては検索したり、文献を軽くあさってみたりネ、
イロイロコソコソやってはいたんですヨ。んで、ある程度見えてきたかな~?と。

諸説あるのでココではあくまでオイラの推論でしかないからネ?オイラも素人だし。



◆むかしのオカネは信頼性がなかった事実!

オカネって、今は「円」で、円の価値は全国ドコへ言っても同じだよネ?
東京で稼いだ1万円を大阪で使っても、それはちゃんと1万円として扱われる。当然っすよネ?

ところが!17世紀以前の日本ではなんと、どうやらそうではなかったようなのです!
ひどい場合、貨幣での取引ができないとかいうケースもあったようなのですヨ!
「米での取引じゃないとダメ」とか「銀ののべ板をもってこい」とかそんなカンジ?

原因はふたつ。ひとつは「貨幣の流通が悪く、一般に浸透していなかった」事。
もうひとつは「時の政府が貨幣政策でぼろ儲け&一人勝ちしようと目論んだ」事です。

もともと日本における貨幣の役割とは、価値のある金属(金・銀・銅など)の匁量を政府が
保証しますヨ、という意味合いで、おもに海外との貿易に使われていたらしいのです。
例えば、コレには銀がいくら含まれていることを政府が保証したもの、という意味合い。

ところがソレを国内で使おうとなった時に、国内で使うんだから匁量とかごまかせるやん?
みたいな事になって(ようは金属の国内での価値を政府が決めればいいわけだからネ)、
匁量をちょろまかした粗悪な貨幣に改鋳して新たに流通させて、これまでのんを回収~とか。

特に平安時代にそんな事が乱発されて、政府はばく大な利益を得ていたようです。

つまり「君が持ってるその500円玉、今日から価値が100円になったから」みたいな事ですヨ。
今じゃ考えられない事態だけど、当時の日本ではそういう事が時折あったようです。
そりゃあネ、そんな事があったらアンタ、貨幣の信用なんてなくなるわなぁ。



◆秀吉の「金」より堺の「銀」

で、安土桃山時代。太閤秀吉が日本の「信頼されなくて浸透しない貨幣」をどうにかしようと。
そこで目をつけたのが「金本位制」というシステム。
まぁ金属の価値を政府が保証するって部分は変わらないんだけど、それが「金」になったわけ。

金地金を政府に納めて、その匁量に応じて貨幣を発行する、みたいな事なんだけど、
まず「金」の価値が高すぎて流通量を賄えないってのが致命的な落とし穴だったのですヨ。
また案の定、1文銭を「金」で作ったら砂粒ぐらいの貨幣になっちゃうヨ!的な問題も!

で、兌換貨幣という概念で、結局今までどおり銅や鉄で作る。なんだ今までと同じじゃん、と。

しかも当時、大阪の堺では独自の貨幣システムが存在してまして、これが「銀本位制」っすナ。
質の高い銀のかたまりを「丁銀」「豆板銀」ってカタチで加工して独自に使ってたそうです。
政府ではなく、堺の商人組合が価値を担保している貨幣ってわけ。

ところがコレ国内外でと~っても高く信頼されてて、政府の貨幣?ノンノン取引できないヨ!
あ、丁銀っすか、それだったら取引OKすよダンナうへへへみたいな事ですヨ。
てなわけで、秀吉による日本初の「金本位制」政策はあまり成功しなかったみたいです。

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◆…家康!家光!綱吉!室伏!

そんなこんなで貨幣価値の混乱というか、17世紀に入るまでは「ソンナモンネ~ヨ」状態で、
時と場所で激しく変動する危ういモノだったそうです。
実際、江戸時代中期ごろまでは米などの「物々交換」てのがデフォだったようですネ。

そうした、貨幣にまつわる経済の混沌をガラリと変えたのが、江戸時代の「寛永通宝」。
これは1626年から全国の「銭座」といわれる公認の貨幣鋳造所で大量に作られ、質もよく、
一般庶民でも安心して使えるような価値で流通したため、以来240年以上も作られたそうな。

まず、それまで発行時の「年号」を称して作られた貨幣のように、時の移ろいで価値が~
的なイメージを払拭するため、「寛永」という、年号に関係のない代名にしたのがよかった!

そして発行したタイミングが、ちょうど米の相場がゆらゆらと大きく揺れていた時期で、
いわゆる市場と役人と地主との癒着がアレで、米で取引すんのもなんだかなぁって風潮もネ。

そもそも買い物する時にわざわざ大八車に米俵積んで峠越えとか不便すぎるし!
そんな背景もあって、寛永通宝はなしくずし的に庶民にスルスル~っと受け入れられたわけ。

え?ちゃんぷるさんよ?当時大判小判もあったんだから、それって金本位制じゃねぇの?
とか思っちゃった貴兄もおられましょうが、厳密にはちょっと違うようですネ。
というのも「1両が◎◎文」っていう固定相場ではなかったようなのですヨ。

目安としては、1両=4分=16朱=4000文てことなんだそうだけれども、実際には、
5000文だったり3000文だったりしていたそうです。つまり1両の価値が変動してたのネ。
両替市場で価値が変動しちゃうのはコレ「金本位制」とはちょっと言えないかな~と。

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◆だ~か~ら~!1文は今のいくらぐらいの感覚なんだヨ!

ああそうだったネ、すっかりテーマを忘れてしまってたヨ。まぁここまで前説ってことで。
さて、ネット上でもところどころでコレに関するトピックで盛り上がってたりするんだけど…

よくヒキアイに出されるのが落語の「時そば」ですヨ。みんなたち知ってる?時そば。
夜鳴きそばを食べて支払うときに「1文2文…今なん時でぇ?」「へぇ6時でさあ」「7文8文…」
ていうやりとりでちょろまかすってやつ。

その時そばの代金が16文で、だいたい320円ぐらいか?みたいな価値想定をして、じゃあアレだ、
1文はだいたい20円ぐらいか~みたいなトコロで多勢が納得しておられるようです。

ところがこの話は江戸初期、1630年ぐらいの話。江戸年間は270年もあっからネ!
その間、1文の価値が変わってない、なんて話はとうてい考えられないですヨ。
詳しい部分は難しいのでばっさりカットするけど、だいたい10~80円の間で揺れていたようで。

まぁ270年間でその程度の変動だからむしろ「超絶安定してんじゃん!」て事なんだけどネ!

江戸後期に発行された「天保通宝」っていう小判型の貨幣では、その価値を当初100文通用と
していたんだけど、イロイロあって最終的には40文まで下落してたりとかするし。
なので当時の貨幣価値を「こんぐらいだ!」と断定することはかなり難しいのよネ!

まぁ目安として、江戸初期ごろは1文=40円、中期20円、後期10円ときどきデフレで80円とか、
乱暴だけどそんなカンジになるんじゃないかなぁと。

ちなみに!なんと寛永通宝は昭和28年まで通貨として通用していたのだそうです!

江戸から明治に変わり、明治3年に「円」が登場した際に、1両=1円、1文=1厘と制定され、
そのまんま昭和28年まで「1厘硬貨」として扱われていたんだそうな。
あ、ちなみに1厘は1000分の1円っす。



(@ё@)<金輪際!赤貧ちゃんぷるにオカネの話をさせるな!せつなくなるわっ!)